曾我部和恭
曽我部和恭, Sogabe Kazuyuki

生日:1948-04-16
年齡:77
性別:
身高:172.0 cm
曽我部 和恭(そがべ かずゆき、1948年4月16日 - 2006年9月17日)は、日本の男性聲優、俳優、ミュージシャン。舊芸名及び本名は曽我部 和行(そがべ かずゆき)。血液型はA型。 ニックネームはガベさん。剣道二段。趣味はサングラス収集。好きなミュージシャンはザ・ベンチャーズ、ジミ・ヘンドリックス、ジェフ・ベック、寺內タケシ。好きな作家は半村良、平井和正、エラリー・クイーン、モーリス・ルブラン。 千葉県船橋市で戦國武將・長宗我部氏の末裔の家系であるサラリーマンの家に出生。小學校6年生の頃東京都に転居し、千代田區立神田一橋中學校、東京都立一橋高等學校を経て、敬愛大學経済學部へ入學。中學2年からエレキギターで作曲するようになり、歌手を目指して大學を4年で中退して日本テレビタレント養成所へ入る。演技を學ぶうちに芝居への意欲が涌き、22歳でテアトル・エコーの養成所に加入。 熊倉一雄や納谷悟朗の指導を受け、テアトル・エコーの舞台公演に出演するとともに、研究生時代からアニメ作品や洋畫吹替の聲優に端役として參加した。聲優デビュー作は1972年公開のアニメ映畫『パンダコパンダ』のおまわりさん役。1974年に『破裏拳ポリマー』でアニメ作品への初主演を果たした。『タイムボカンシリーズ』では『ゼンダマン』の主人公・鉄ちゃん / ゼンダマン1號に內定しており、主題歌のレコーディングにも台詞収録で參加していたが、番組初収録直前に體調不良となり降板した(後任は三ツ矢雄二。なお、第49話にコジロー役でゲスト出演している)。その2年後には同シリーズ続編の『ヤットデタマン』に時ワタル / ヤットデタマン役で主演を果たしている。 1977年には野島昭生、神谷明と飲みに行った席で演奏したギターがあまりにも上手だったのがきっかけで、古谷徹、古川登志夫らを呼び込み聲優バンド「スラップスティック」を発足。リードギターと作詞・作曲を擔當していた。私生活では1980年6月に結婚。テアトル・エコーの正所屬となり舞台の演出も手掛けていたが、1990年代に青二プロダクションへ移籍した。 かつて神谷明、中尾隆聖、內田直哉らと共に演劇活動をしていたことがある(曽我部は演出を擔當)。當時芝居の演出方法をめぐって口論になっても、最終的に養成所時代の先輩だった神谷には逆らえなかったと言う逸話がある。また、地元・千葉県の自治體主催のママさん劇団「陽気妃」の舞台演出家としても活動していた。 自身の聲に衰えを感じたとして2000年12月31日に引退した。持ち役は主に置鮎龍太郎、稲田徹らに引き継がれたが、2004年に発売された『絶対無敵ライジンオー』・『元気爆発ガンバルガー』DVD-BOX購入特典の新作ドラマCD『絶対爆発ライジンオー対ガンバルガー』に持ち役のヤミノリウスIII世役で出演。また、『元気爆発ガンバルガー』DVD-BOX発売の際にはヤミノリウスIII世として「テレビから離れて部屋を明るくして見るように」と注意する新録音聲が各巻冒頭に収録されており、これらが最後の出演となった。『銀河旋風ブライガー』のドラマCD出演の依頼もあったそうだが斷ったらしい。 2005年に出版されたムック本『アマゾンから帰ってきた男 別冊』では『仮面ライダーアマゾン』に関してインタビューを受けている。本書の中では特撮とアニメのアフレコの違いや『仮面ライダーアマゾン』以外にも、一番印象に殘っている洋畫の吹き替え役などを語っている。本人は引退を否定し、將來に対する復帰への意欲を語っており、近影も掲載されていた。 2006年9月17日午後8時頃、食道癌のため千葉県內の病院で死去した。58歳沒。死の2ヶ月前に癌が見つかった時點では、既に進行した末期狀態で手の施しようもない狀態だったという。葬儀に參列した舊友たちは、スラップスティックなどの間でも「痩せすぎ」とネタにされていた曽我部のスマートな容貌がさらに痩せ細っているのを見て、思わず涙を零したという。
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曽我部 和恭(そがべ かずゆき、1948年4月16日 - 2006年9月17日)は、日本の男性聲優、俳優、ミュージシャン。舊芸名及び本名は曽我部 和行(そがべ かずゆき)。血液型はA型。 ニックネームはガベさん。剣道二段。趣味はサングラス収集。好きなミュージシャンはザ・ベンチャーズ、ジミ・ヘンドリックス、ジェフ・ベック、寺內タケシ。好きな作家は半村良、平井和正、エラリー・クイーン、モーリス・ルブラン。 千葉県船橋市で戦國武將・長宗我部氏の末裔の家系であるサラリーマンの家に出生。小學校6年生の頃東京都に転居し、千代田區立神田一橋中學校、東京都立一橋高等學校を経て、敬愛大學経済學部へ入學。中學2年からエレキギターで作曲するようになり、歌手を目指して大學を4年で中退して日本テレビタレント養成所へ入る。演技を學ぶうちに芝居への意欲が涌き、22歳でテアトル・エコーの養成所に加入。 熊倉一雄や納谷悟朗の指導を受け、テアトル・エコーの舞台公演に出演するとともに、研究生時代からアニメ作品や洋畫吹替の聲優に端役として參加した。聲優デビュー作は1972年公開のアニメ映畫『パンダコパンダ』のおまわりさん役。1974年に『破裏拳ポリマー』でアニメ作品への初主演を果たした。『タイムボカンシリーズ』では『ゼンダマン』の主人公・鉄ちゃん / ゼンダマン1號に內定しており、主題歌のレコーディングにも台詞収録で參加していたが、番組初収録直前に體調不良となり降板した(後任は三ツ矢雄二。なお、第49話にコジロー役でゲスト出演している)。その2年後には同シリーズ続編の『ヤットデタマン』に時ワタル / ヤットデタマン役で主演を果たしている。 1977年には野島昭生、神谷明と飲みに行った席で演奏したギターがあまりにも上手だったのがきっかけで、古谷徹、古川登志夫らを呼び込み聲優バンド「スラップスティック」を発足。リードギターと作詞・作曲を擔當していた。私生活では1980年6月に結婚。テアトル・エコーの正所屬となり舞台の演出も手掛けていたが、1990年代に青二プロダクションへ移籍した。 かつて神谷明、中尾隆聖、內田直哉らと共に演劇活動をしていたことがある(曽我部は演出を擔當)。當時芝居の演出方法をめぐって口論になっても、最終的に養成所時代の先輩だった神谷には逆らえなかったと言う逸話がある。また、地元・千葉県の自治體主催のママさん劇団「陽気妃」の舞台演出家としても活動していた。 自身の聲に衰えを感じたとして2000年12月31日に引退した。持ち役は主に置鮎龍太郎、稲田徹らに引き継がれたが、2004年に発売された『絶対無敵ライジンオー』・『元気爆発ガンバルガー』DVD-BOX購入特典の新作ドラマCD『絶対爆発ライジンオー対ガンバルガー』に持ち役のヤミノリウスIII世役で出演。また、『元気爆発ガンバルガー』DVD-BOX発売の際にはヤミノリウスIII世として「テレビから離れて部屋を明るくして見るように」と注意する新録音聲が各巻冒頭に収録されており、これらが最後の出演となった。『銀河旋風ブライガー』のドラマCD出演の依頼もあったそうだが斷ったらしい。 2005年に出版されたムック本『アマゾンから帰ってきた男 別冊』では『仮面ライダーアマゾン』に関してインタビューを受けている。本書の中では特撮とアニメのアフレコの違いや『仮面ライダーアマゾン』以外にも、一番印象に殘っている洋畫の吹き替え役などを語っている。本人は引退を否定し、將來に対する復帰への意欲を語っており、近影も掲載されていた。 2006年9月17日午後8時頃、食道癌のため千葉県內の病院で死去した。58歳沒。死の2ヶ月前に癌が見つかった時點では、既に進行した末期狀態で手の施しようもない狀態だったという。葬儀に參列した舊友たちは、スラップスティックなどの間でも「痩せすぎ」とネタにされていた曽我部のスマートな容貌がさらに痩せ細っているのを見て、思わず涙を零したという。
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