……宗三左文字と言います。 今川義元が討たれた時、僕を戦利品として得た魔王によって磨上られ、刻印を入れられてから今の僕があります。 ……ですから、義元左文字、とも呼ばれています。 その後は豊臣秀吉、秀頼、徳川家康、そして徳川將軍家と僕は主人を変え、天下人の持つ刀として扱われました。 ……なぜ、みんな僕に、そんなに執着したのでしょうね…… 宗三左文字(そうざさもんじ)は、日本刀。その所持主の移り変わりから、「義元左文字」と稱される事もある。 元々は戦國時代、畿內の三好宗三から甲斐・武田信玄の父武田信虎に贈られた刀である。その後、武田信虎が今川氏と和睦を示すものとして娘・定恵院を嫁がせる際に一緒に持たせた。その婿・今川義元は、この刀を自分の愛刀として大切にしたという。 その後、1560年の桶狹間の戦いにおいて義元を敗死させた織田信長は、戦利品としてこの刀を取得。信長は、「永祿三年五月十九日義元討補刻彼所持持刀織田尾張守信長」と刻印し、自分の愛刀とした。これは本能寺の変まで信長の手元にあった。 本能寺の変の後は、豊臣秀吉の手に渡った。秀吉死去後は、その子の豊臣秀頼の手に渡り、さらに、秀頼から徳川家康の手に渡った。これ以降、徳川將軍家に代々受け継がれていった。この刀は常に天下を取るもの、狙う者の手にある運命にあると言われてきた。 その後、天明の大火に遭うものの再刃された。明治維新後、明治天皇が信長に建勲(たけいさお)の神號を贈り、建勲神社が創建された。その際に徳川家から「義元左文字」が建勲神社に奉納された。現在では重要文化財である。
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……宗三左文字と言います。 今川義元が討たれた時、僕を戦利品として得た魔王によって磨上られ、刻印を入れられてから今の僕があります。 ……ですから、義元左文字、とも呼ばれています。 その後は豊臣秀吉、秀頼、徳川家康、そして徳川將軍家と僕は主人を変え、天下人の持つ刀として扱われました。 ……なぜ、みんな僕に、そんなに執着したのでしょうね…… 宗三左文字(そうざさもんじ)は、日本刀。その所持主の移り変わりから、「義元左文字」と稱される事もある。 元々は戦國時代、畿內の三好宗三から甲斐・武田信玄の父武田信虎に贈られた刀である。その後、武田信虎が今川氏と和睦を示すものとして娘・定恵院を嫁がせる際に一緒に持たせた。その婿・今川義元は、この刀を自分の愛刀として大切にしたという。 その後、1560年の桶狹間の戦いにおいて義元を敗死させた織田信長は、戦利品としてこの刀を取得。信長は、「永祿三年五月十九日義元討補刻彼所持持刀織田尾張守信長」と刻印し、自分の愛刀とした。これは本能寺の変まで信長の手元にあった。 本能寺の変の後は、豊臣秀吉の手に渡った。秀吉死去後は、その子の豊臣秀頼の手に渡り、さらに、秀頼から徳川家康の手に渡った。これ以降、徳川將軍家に代々受け継がれていった。この刀は常に天下を取るもの、狙う者の手にある運命にあると言われてきた。 その後、天明の大火に遭うものの再刃された。明治維新後、明治天皇が信長に建勲(たけいさお)の神號を贈り、建勲神社が創建された。その際に徳川家から「義元左文字」が建勲神社に奉納された。現在では重要文化財である。
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