田波靖男
Tanami Yasuo

生日:1933-12-12
年齡:91
性別:
身高: cm
日本の腳本家・作家・プロデューサー。東京都出身。ペンネームに「梅野かおる」「大井みなみ」がある。名前の表記は「靖」の右下の「月」が「円」になっている舊字も使われている。 1946年に東京高等師範學校附屬國民學校(現・筑波大學附屬小學校)、1952年に東京教育大學附屬中學校・高等學校(現・筑波大學附屬中學校・高等學校)を卒業。慶應義塾大學文學部卒業。大學時代は創設されたばかりの慶應義塾大學推理小説同好會に參加。 大學を1957年に卒業し、東寶の助監督試験に合格して入社するも11人の同期入社の助監督志望者からただ1人、文芸部へと回される。1年前に入社した石原慎太郎が芥川賞を受賞して3日で辭めていたためその空きを埋めるためだったという。文芸部では、プロデューサーの企畫助手として各プロデューサーに付く。藤本真澄に付き『大學のお姐ちゃん』を擔當し、「社長シリーズ」などを擔當していた腳本家の笠原良三に師事。だが、あくまで文芸部員としての手伝いのつもりであった。しかし、笠原の口述筆記や構成手伝いから次第にシナリオの先書きを擔當するようになる。 初腳本作品は、1961年の『慕情の人』(丸山誠治監督)で依頼していた腳本家2人が腳本を完成できず、文芸部による後始末として田波が執筆することになったものであった。同年にスタートした加山雄三主演の若大將シリーズ全作品に攜わり、第5作の『海の若大將』から笠原良三との合作から単獨執筆になる。 1962年には植木等主演の『ニッポン無責任時代』にオリジナル・シナリオを提供して以降、クレージーキャッツ主演作品の腳本も多數擔當。この腳本は、もともとは「社長シリーズ」を擔當していて、何事も會社に忠実な社員像を不満に感じており、そのアンチテーゼとして『無責任社員』というタイトルでプロットをまとめていたものだった。急遽、クレージーキャッツで映畫を製作する事になったプロデューサーの安達英三郎から相談を受けた際に提案し、植木等を念頭にシナリオ化したものだった。この反體制の申し子のような主人公が活躍する作品を上司の常識派の藤本真澄が認めるはずがないことを見越していた安達は、作品が完成しても藤本には試寫を見せないように社內試寫のスケジュールを組んだという。案の定、公開された映畫が大ヒットしていると聞いてから劇場で観た藤本は、自社作品のヒットは喜びながらも安達を呼び不愉快だと怒鳴りつけた。しかし、機を見るのが敏な大プロデューサーの藤本はさっそく渡辺プロと提攜して植木等主演の「日本一の男」シリーズを製作することにする。しかしながら無責任シリーズ2本にあった毒は打ち消されたものとなった。田波はそんな藤本に面従腹背する形で後期のクレージー映畫などではプロデューサーも兼任し、クレージー映畫の挿入歌の作詞も手がけた。他にも『若い季節』や、ザ・タイガースの主演シリーズなど、東寶娯楽映畫のエースとして活躍した。 なお、1965年8月に公開された『海の若大將』の大ヒットを見屆けた藤本真澄からシナリオライターとして獨立するようにと東寶への辭表を書かせられ[3]、翌月9月より腳本家として東寶と専屬契約を結ぶことになった。プロデューサー志望だった田波が會社に殘ってプロデューサーをしたいと抗弁するも「プロデューサーなんて、會社にしてもらうものじゃない。自分でなるものだ」と言い含められての事だった。 1968年頃には[4]、小川英、坪島孝と共にジャックプロダクションを設立し、その後もたのきんトリオや松田聖子の映畫作品など多數のアイドル映畫で手腕を発揮したほか、『青春とはなんだ』『太陽にほえろ!』、また「少年ドラマシリーズ」の『未來からの挑戦』など、數多くの人気テレビドラマの腳本を執筆。青春ものやコメディタッチの軽妙な娯楽作品を數多く生み出した。2000年3月21日に肝硬変のため死去。66歳沒。
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日本の腳本家・作家・プロデューサー。東京都出身。ペンネームに「梅野かおる」「大井みなみ」がある。名前の表記は「靖」の右下の「月」が「円」になっている舊字も使われている。 1946年に東京高等師範學校附屬國民學校(現・筑波大學附屬小學校)、1952年に東京教育大學附屬中學校・高等學校(現・筑波大學附屬中學校・高等學校)を卒業。慶應義塾大學文學部卒業。大學時代は創設されたばかりの慶應義塾大學推理小説同好會に參加。 大學を1957年に卒業し、東寶の助監督試験に合格して入社するも11人の同期入社の助監督志望者からただ1人、文芸部へと回される。1年前に入社した石原慎太郎が芥川賞を受賞して3日で辭めていたためその空きを埋めるためだったという。文芸部では、プロデューサーの企畫助手として各プロデューサーに付く。藤本真澄に付き『大學のお姐ちゃん』を擔當し、「社長シリーズ」などを擔當していた腳本家の笠原良三に師事。だが、あくまで文芸部員としての手伝いのつもりであった。しかし、笠原の口述筆記や構成手伝いから次第にシナリオの先書きを擔當するようになる。 初腳本作品は、1961年の『慕情の人』(丸山誠治監督)で依頼していた腳本家2人が腳本を完成できず、文芸部による後始末として田波が執筆することになったものであった。同年にスタートした加山雄三主演の若大將シリーズ全作品に攜わり、第5作の『海の若大將』から笠原良三との合作から単獨執筆になる。 1962年には植木等主演の『ニッポン無責任時代』にオリジナル・シナリオを提供して以降、クレージーキャッツ主演作品の腳本も多數擔當。この腳本は、もともとは「社長シリーズ」を擔當していて、何事も會社に忠実な社員像を不満に感じており、そのアンチテーゼとして『無責任社員』というタイトルでプロットをまとめていたものだった。急遽、クレージーキャッツで映畫を製作する事になったプロデューサーの安達英三郎から相談を受けた際に提案し、植木等を念頭にシナリオ化したものだった。この反體制の申し子のような主人公が活躍する作品を上司の常識派の藤本真澄が認めるはずがないことを見越していた安達は、作品が完成しても藤本には試寫を見せないように社內試寫のスケジュールを組んだという。案の定、公開された映畫が大ヒットしていると聞いてから劇場で観た藤本は、自社作品のヒットは喜びながらも安達を呼び不愉快だと怒鳴りつけた。しかし、機を見るのが敏な大プロデューサーの藤本はさっそく渡辺プロと提攜して植木等主演の「日本一の男」シリーズを製作することにする。しかしながら無責任シリーズ2本にあった毒は打ち消されたものとなった。田波はそんな藤本に面従腹背する形で後期のクレージー映畫などではプロデューサーも兼任し、クレージー映畫の挿入歌の作詞も手がけた。他にも『若い季節』や、ザ・タイガースの主演シリーズなど、東寶娯楽映畫のエースとして活躍した。 なお、1965年8月に公開された『海の若大將』の大ヒットを見屆けた藤本真澄からシナリオライターとして獨立するようにと東寶への辭表を書かせられ[3]、翌月9月より腳本家として東寶と専屬契約を結ぶことになった。プロデューサー志望だった田波が會社に殘ってプロデューサーをしたいと抗弁するも「プロデューサーなんて、會社にしてもらうものじゃない。自分でなるものだ」と言い含められての事だった。 1968年頃には[4]、小川英、坪島孝と共にジャックプロダクションを設立し、その後もたのきんトリオや松田聖子の映畫作品など多數のアイドル映畫で手腕を発揮したほか、『青春とはなんだ』『太陽にほえろ!』、また「少年ドラマシリーズ」の『未來からの挑戦』など、數多くの人気テレビドラマの腳本を執筆。青春ものやコメディタッチの軽妙な娯楽作品を數多く生み出した。2000年3月21日に肝硬変のため死去。66歳沒。
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