庵野秀明
Anno Hideaki

生日:1960-05-22
年齡:64
性別:
身高: cm
株式會社カラー代表取締役社長。 一般には『エヴァンゲリオン』の監督としての認知度が高いが、もともとは淒腕のアニメーターでありエフェクト、メカを得意としていた。 山口県立宇部高校在學中、自ら部長を務める美術部にてセルアニメ、スチルアニメや、実寫作品の自主製作を始める。 大學浪人中の1979年にアニドウ主宰の自主製作アニメの上映會『PAF5』に參加。 そこで観たグループえびせん製作のペーパーアニメ『セメダインボンドG17號』などのアマチュア製作者の作品に觸発され、 地元山口県宇部市で永山竜葉らと共に結成した製作集団グループSHADOにおいて、ペーパーアニメの製作に着手。 グループSHADOにて製作された『みず』、後述の大學入學後に製作された『バス亭にて』、『じょうぶなタイヤ』等の作品は、 1980年開催の『PAF6』等で発表された。 1980年、當時は學科試験の無かった大阪芸術大學に入學すると、そこで後にGAINAXのメンバーとなる山賀博之、赤井孝美と出會う。 翌1981年、永山竜葉からの伝手で、當時関西でSF大會の運営に攜わっていた岡田斗司夫、武田康廣らからの依頼を受け、 第20回日本SF大會(通稱『DAICON3』)のオープニングアニメーションを山賀、赤井らと共に製作。 作中に登場するパワードスーツの作畫で一躍腳光を浴びる。 『DAICON3』終了後、岡田らが2年後のSF大會(『DAICON4』)開催に向けての宣伝とスタッフの育成のため、 自主製作映畫の製作集団DAICON FILMを設立すると、山賀、赤井と共にこれに參加。 DAICON FILM製作の自主製作映畫『帰ってきたウルトラマン マットアロー1號発進命令』では監督を務めた。 1982年、『DAICON3』のOPアニメを観たスタジオぬえの面々の誘われ、 岡田斗司夫と共に上京した際に『超時空要塞マクロス』の製作現場を訪れる。 この際、板野一郎から「原畫を描いてみなさい」と言われそのまま參加。(初めての仕事は2話のメカの原畫修正) 大阪、鳥取での『帰ってきたウルトラマン』の製作を挾んで、翌1983年に再び上京した後、第27話『愛は流れる』辺りまで作畫に攜わった。 大阪へ戻った後『マクロス』で培った技術を持って製作された『DAICON4 OPENING ANIMATION』の作畫では、 その素人離れしたクオリティで業界內外から注目された。(TVドラマ『電車男』のOPではDAICON4のOPを一部捩っている) この時期、自主製作作業で忙しく、大學には顔を出さずそのまま學費を払わないでいたため放校処分となるが、 その後、就職活動のため上京した際に宮崎駿監督作品『風の谷のナウシカ』への參加が決まった。 ベテランやスターアニメーターがこぞって參加した『ナウシカ』の中で素人に近い庵野の採用は大抜擢であった。 宮崎駿との深い関係はここから始まっている。 1984年、『ナウシカ』に続いて參加した『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』の製作終了後、 増尾昭一、西島克彥、伊藤浩二と共にスタジオ・グラビトンを設立。 同年末には、劇場用映畫『王立宇宙軍』の製作を目的とした株式會社GAINAXの設立に參加し、これらを長年活動の拠點としていた。 アニメーターとしては人物の作畫に弱いところがあるが、メカの細かい設定や爆発などのエフェクト描寫は突出して優れていた。 特に『王立宇宙軍 オネアミスの翼』で庵野が手掛けたクライマックスパートは、 セルを一コマに9枚重ね、3秒間でセル枚數が250枚というカットもあったと言われている。 これに使われた粗いスパッタリングのような粉塵エフェクト(『たたき』と呼ばれる)は、 後にテンプレート化され、GAINAX作品中で多用されている。 『トップをねらえ!』、『ふしぎの海のナディア』の監督を経て、1995年に『新世紀エヴァンゲリオン』を監督。 オタクとしてこだわってきたあらゆるものへのオマージュを込めた作品として大ヒットした。 だが広げられる限り広げた大風呂敷を畳むことが出來ず最終2回で実験フィルムのような映像を放送に乗せてしまい、物議をかもすことになる。 そうした異様なエピソードも含めて、現在まで多くのアニメファンが日本のアニメとしてトップに數えるほどの人気が続いている。 貞本義行の紹介で漫畫家の安野モヨコと知り合い、2002年に結婚。仲人は宮崎駿が務めた。 後に二人のオタッキーな結婚生活を安野が『監督不行屆』という漫畫作品として発表している。 また安野モヨコ原作のアニメ『シュガシュガルーン』ではOPコンテを安野と共に手がけている。 アニメオタク、特撮オタク、戦艦マニアとしても知られ、 DAICON FILMでは前述の『帰ってきたウルトラマン マットアロー1號発進命令』を自主製作している。 ちなみに平成ライダーシリーズでは『555』と『カブト』がお気に入りらしい。 ガンダムシリーズでは自らもメカニックデザインとして関わった『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』に強い愛情を示し、 伝説の同人誌『逆襲のシャア友の會』の編集にも攜わった。 ほかにも『逆襲のシャア』に関しては、庵野が新ガンダムのデザインコンペに參加した際に、 安彥良和タッチをそっくりに再現した初代ガンダムのイラストを描いて提出し、それを見た監督の富野由悠季が涙を流して怒った というエピソードが岡田斗司夫によって語られている。 また『機動武闘伝Gガンダム』では初期OPの絵コンテを手伝った。 庵野の同級生であり友人でもある中村彰正が発見した小惑星に『庵野秀明』と名付け、正式名稱となったエピソードもある。
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株式會社カラー代表取締役社長。 一般には『エヴァンゲリオン』の監督としての認知度が高いが、もともとは淒腕のアニメーターでありエフェクト、メカを得意としていた。 山口県立宇部高校在學中、自ら部長を務める美術部にてセルアニメ、スチルアニメや、実寫作品の自主製作を始める。 大學浪人中の1979年にアニドウ主宰の自主製作アニメの上映會『PAF5』に參加。 そこで観たグループえびせん製作のペーパーアニメ『セメダインボンドG17號』などのアマチュア製作者の作品に觸発され、 地元山口県宇部市で永山竜葉らと共に結成した製作集団グループSHADOにおいて、ペーパーアニメの製作に着手。 グループSHADOにて製作された『みず』、後述の大學入學後に製作された『バス亭にて』、『じょうぶなタイヤ』等の作品は、 1980年開催の『PAF6』等で発表された。 1980年、當時は學科試験の無かった大阪芸術大學に入學すると、そこで後にGAINAXのメンバーとなる山賀博之、赤井孝美と出會う。 翌1981年、永山竜葉からの伝手で、當時関西でSF大會の運営に攜わっていた岡田斗司夫、武田康廣らからの依頼を受け、 第20回日本SF大會(通稱『DAICON3』)のオープニングアニメーションを山賀、赤井らと共に製作。 作中に登場するパワードスーツの作畫で一躍腳光を浴びる。 『DAICON3』終了後、岡田らが2年後のSF大會(『DAICON4』)開催に向けての宣伝とスタッフの育成のため、 自主製作映畫の製作集団DAICON FILMを設立すると、山賀、赤井と共にこれに參加。 DAICON FILM製作の自主製作映畫『帰ってきたウルトラマン マットアロー1號発進命令』では監督を務めた。 1982年、『DAICON3』のOPアニメを観たスタジオぬえの面々の誘われ、 岡田斗司夫と共に上京した際に『超時空要塞マクロス』の製作現場を訪れる。 この際、板野一郎から「原畫を描いてみなさい」と言われそのまま參加。(初めての仕事は2話のメカの原畫修正) 大阪、鳥取での『帰ってきたウルトラマン』の製作を挾んで、翌1983年に再び上京した後、第27話『愛は流れる』辺りまで作畫に攜わった。 大阪へ戻った後『マクロス』で培った技術を持って製作された『DAICON4 OPENING ANIMATION』の作畫では、 その素人離れしたクオリティで業界內外から注目された。(TVドラマ『電車男』のOPではDAICON4のOPを一部捩っている) この時期、自主製作作業で忙しく、大學には顔を出さずそのまま學費を払わないでいたため放校処分となるが、 その後、就職活動のため上京した際に宮崎駿監督作品『風の谷のナウシカ』への參加が決まった。 ベテランやスターアニメーターがこぞって參加した『ナウシカ』の中で素人に近い庵野の採用は大抜擢であった。 宮崎駿との深い関係はここから始まっている。 1984年、『ナウシカ』に続いて參加した『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』の製作終了後、 増尾昭一、西島克彥、伊藤浩二と共にスタジオ・グラビトンを設立。 同年末には、劇場用映畫『王立宇宙軍』の製作を目的とした株式會社GAINAXの設立に參加し、これらを長年活動の拠點としていた。 アニメーターとしては人物の作畫に弱いところがあるが、メカの細かい設定や爆発などのエフェクト描寫は突出して優れていた。 特に『王立宇宙軍 オネアミスの翼』で庵野が手掛けたクライマックスパートは、 セルを一コマに9枚重ね、3秒間でセル枚數が250枚というカットもあったと言われている。 これに使われた粗いスパッタリングのような粉塵エフェクト(『たたき』と呼ばれる)は、 後にテンプレート化され、GAINAX作品中で多用されている。 『トップをねらえ!』、『ふしぎの海のナディア』の監督を経て、1995年に『新世紀エヴァンゲリオン』を監督。 オタクとしてこだわってきたあらゆるものへのオマージュを込めた作品として大ヒットした。 だが広げられる限り広げた大風呂敷を畳むことが出來ず最終2回で実験フィルムのような映像を放送に乗せてしまい、物議をかもすことになる。 そうした異様なエピソードも含めて、現在まで多くのアニメファンが日本のアニメとしてトップに數えるほどの人気が続いている。 貞本義行の紹介で漫畫家の安野モヨコと知り合い、2002年に結婚。仲人は宮崎駿が務めた。 後に二人のオタッキーな結婚生活を安野が『監督不行屆』という漫畫作品として発表している。 また安野モヨコ原作のアニメ『シュガシュガルーン』ではOPコンテを安野と共に手がけている。 アニメオタク、特撮オタク、戦艦マニアとしても知られ、 DAICON FILMでは前述の『帰ってきたウルトラマン マットアロー1號発進命令』を自主製作している。 ちなみに平成ライダーシリーズでは『555』と『カブト』がお気に入りらしい。 ガンダムシリーズでは自らもメカニックデザインとして関わった『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』に強い愛情を示し、 伝説の同人誌『逆襲のシャア友の會』の編集にも攜わった。 ほかにも『逆襲のシャア』に関しては、庵野が新ガンダムのデザインコンペに參加した際に、 安彥良和タッチをそっくりに再現した初代ガンダムのイラストを描いて提出し、それを見た監督の富野由悠季が涙を流して怒った というエピソードが岡田斗司夫によって語られている。 また『機動武闘伝Gガンダム』では初期OPの絵コンテを手伝った。 庵野の同級生であり友人でもある中村彰正が発見した小惑星に『庵野秀明』と名付け、正式名稱となったエピソードもある。
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