楠部大吉郎
Kusube Daikichirou

生日:1934-12-10
年齡:90
性別:
身高: cm
日本のアニメーター、シンエイ動畫の創立者、前會長。舊・満州國生まれ。シンエイ動畫2代目社長の楠部三吉郎は実弟。楠部工、楠部文は子。 満州國に生まれる。戦後引き揚げて群馬県沼田市に住む。群馬県立沼田高等學校を卒業。彫刻家を志望し、東京芸術大學を3度受験したが合格できず、斷念する。1957年に漫畫を書き光文社の『少年』に持ち込みをする。光文社との打ち合わせで東映動畫設立の話を聞き、完成したばかりの大泉スタジオを訪ねる。そこで山本善次郎と面談し、アニメーター募集に応募することを決める。同社の第1回目の一般公募で入社。養成期間中の成績が高く、養成が終わると東映動畫の長編第1作『白蛇伝』で早くもセカンド原畫を任される。しかしスタッフと衝突し仕事がこなくなった。暇なところを森康二の絵コンテを見て「ここをやらせて下さい」と提案。これが受け入れられ原畫に大抜擢された(それまで『白蛇伝』の原畫には森康二と大工原章の二人しかいなかった)。その後もアニメ映畫を多く手掛け、得意なアクションシーンで腕を振るった。 手塚治虫の蟲プロによる『鉄腕アトム』でテレビアニメの時代を迎えると、東映動畫のテレビアニメ第2作『少年忍者 風のフジ丸』で楠部は作畫監督を擔當。當時は該當する役職がなかったが今日でいうところの「キャラクターデザイン」も擔當した。また『フジ丸』の演出には実寫畑からの人材が多く、楠部は矢吹公郎、田宮武、勝間田具治、村山鎮男などにアニメの演出を教えた。『フジ丸』は製作が遅れ東映動畫は楠部も原畫に參加するよう要請した。楠部が斷ると作畫料を上げて再度要請してきた。こうして『フジ丸』のスケジュールが逼迫するたびに楠部の収入は上がり、月収が150萬円になった(男性大卒の初任給が2萬円台の時代である)。この時の収入が後のAプロダクション設立の資金になる。さらに東映動畫から蟲プロへの移籍が相次いだため、それを抑えるため、大塚康生らとともに正社員の10倍の報酬を得る契約社員5人のうちの1人にまで登りつめた。しかし楠部の給料が東映動畫の社長よりも高いことが判明し、騒動になり1965年9月に退社を余儀なくされた。 東映動畫は動畫連盟を通じて他社に楠部を採用しないように働きかけたが、これが逆効果を生んだ。自宅で手塚から蟲プロの重役待遇で迎える話を持ちかけられたが、斷った。斷ってから20分後に藤岡豊に東京ムービーに誘われた。これも「もう宮仕えはする気はない」と斷った。そこで東映動畫が長編動畫時代のスタッフを切り捨て、若手中心のスタッフで低予算のテレビアニメ時代を乗り切る方針を選択したこともあり、アニメ製作會社として1965年12月にAプロダクション(以下Aプロ)を設立。東京ムービーの本隊に參加しない代わりに、業務提攜(資本提攜なし)を結び、製作部門を請け負うこととした。親分肌の性格で知られ、Aプロの初期のスタッフは東映動畫からついてきた芝山努、小林治、椛島義夫などである。Aプロでは社長としてプロダクションの経営に當たる一方、作畫監督として、その確かなデッサン力と骨太なタッチでテレビアニメ『巨人の星』では不可能といわれた劇畫コミックのアニメ化に成功。定期採用により、多くの優秀なアニメーターを養成した。また、台灣にもアニメ製作會社「影人電影公司」を設け、大塚康生と共に台灣でアニメーターを育て上げている。また、1970年には実弟の三吉郎が営業として東京ムービーに入社し、楠部を支えることになった[5。 同時進行する製作本數が5本になった1974年、テレビアニメ『柔道讃歌』(4月~9月、日本テレビ系)の作畫監督を務めている最中に病に倒れる。1年間の療養を取り、その間に製作本數が激減。経営の危機を迎えたことで、実製作のみの體制に限界を感じた。さらに東京ムービー自體の製作本數の減少と、東京ムービーの藤岡豊が梶原一騎、映畫プロデューサーの川野泰彥と共に「三協映畫」を設立した影響で東京ムービーの経営が困窮。東京ムービーの経営部門を東京ムービー新社として獨立させ、殘りの東京ムービーを楠部に引き取るように要請されたがこれを固辭。こうしてAプロは東京ムービーとの契約を解消。社名も東京ムービー新社に対抗してシンエイ(新・Aプロダクション、「アニメ界の新鋭」の意)動畫と改め、企畫と製作も行なう製作會社として1976年9月9日、再出発した。楠部三吉郎は、前記のように藤岡から「責任を被ってくれ」と頼まれて納得できずに楠部に相談すると、「いまある金はアニメで稼いだ金だ。アニメで失うなら、どう使ってもらってもかまわない」と好きにしてよいと返答されたことで、獨立を決意したと記している。 シンエイ動畫設立初期の楠部は作畫も手がけ、テレビアニメ『日本名作童話シリーズ 赤い鳥のこころ』(1979年、テレビ朝日系)など、作畫監督として參加していたが、それ以降は社長・會長職に専念する。ただ『劇場版ドラえもん』の作品監修は19年間の長きに渡り(1980年『ドラえもん のび太の恐竜』~1999年『ドラえもん のび太の宇宙漂流記』)參加していた。楠部三吉郎は、楠部に「會社の文鎮」として現場に口を出さず下のものが相談に來たときだけ乗ってくれるよう頼み、その通り実行したと記している。 2005年8月27日死去。享年70。沒後の2006年3月23日から26日に開催された『第5回東京國際アニメフェア』の中で、シンエイ動畫創立の功績に対して、第2回特別功労賞が授與された。
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日本のアニメーター、シンエイ動畫の創立者、前會長。舊・満州國生まれ。シンエイ動畫2代目社長の楠部三吉郎は実弟。楠部工、楠部文は子。 満州國に生まれる。戦後引き揚げて群馬県沼田市に住む。群馬県立沼田高等學校を卒業。彫刻家を志望し、東京芸術大學を3度受験したが合格できず、斷念する。1957年に漫畫を書き光文社の『少年』に持ち込みをする。光文社との打ち合わせで東映動畫設立の話を聞き、完成したばかりの大泉スタジオを訪ねる。そこで山本善次郎と面談し、アニメーター募集に応募することを決める。同社の第1回目の一般公募で入社。養成期間中の成績が高く、養成が終わると東映動畫の長編第1作『白蛇伝』で早くもセカンド原畫を任される。しかしスタッフと衝突し仕事がこなくなった。暇なところを森康二の絵コンテを見て「ここをやらせて下さい」と提案。これが受け入れられ原畫に大抜擢された(それまで『白蛇伝』の原畫には森康二と大工原章の二人しかいなかった)。その後もアニメ映畫を多く手掛け、得意なアクションシーンで腕を振るった。 手塚治虫の蟲プロによる『鉄腕アトム』でテレビアニメの時代を迎えると、東映動畫のテレビアニメ第2作『少年忍者 風のフジ丸』で楠部は作畫監督を擔當。當時は該當する役職がなかったが今日でいうところの「キャラクターデザイン」も擔當した。また『フジ丸』の演出には実寫畑からの人材が多く、楠部は矢吹公郎、田宮武、勝間田具治、村山鎮男などにアニメの演出を教えた。『フジ丸』は製作が遅れ東映動畫は楠部も原畫に參加するよう要請した。楠部が斷ると作畫料を上げて再度要請してきた。こうして『フジ丸』のスケジュールが逼迫するたびに楠部の収入は上がり、月収が150萬円になった(男性大卒の初任給が2萬円台の時代である)。この時の収入が後のAプロダクション設立の資金になる。さらに東映動畫から蟲プロへの移籍が相次いだため、それを抑えるため、大塚康生らとともに正社員の10倍の報酬を得る契約社員5人のうちの1人にまで登りつめた。しかし楠部の給料が東映動畫の社長よりも高いことが判明し、騒動になり1965年9月に退社を余儀なくされた。 東映動畫は動畫連盟を通じて他社に楠部を採用しないように働きかけたが、これが逆効果を生んだ。自宅で手塚から蟲プロの重役待遇で迎える話を持ちかけられたが、斷った。斷ってから20分後に藤岡豊に東京ムービーに誘われた。これも「もう宮仕えはする気はない」と斷った。そこで東映動畫が長編動畫時代のスタッフを切り捨て、若手中心のスタッフで低予算のテレビアニメ時代を乗り切る方針を選択したこともあり、アニメ製作會社として1965年12月にAプロダクション(以下Aプロ)を設立。東京ムービーの本隊に參加しない代わりに、業務提攜(資本提攜なし)を結び、製作部門を請け負うこととした。親分肌の性格で知られ、Aプロの初期のスタッフは東映動畫からついてきた芝山努、小林治、椛島義夫などである。Aプロでは社長としてプロダクションの経営に當たる一方、作畫監督として、その確かなデッサン力と骨太なタッチでテレビアニメ『巨人の星』では不可能といわれた劇畫コミックのアニメ化に成功。定期採用により、多くの優秀なアニメーターを養成した。また、台灣にもアニメ製作會社「影人電影公司」を設け、大塚康生と共に台灣でアニメーターを育て上げている。また、1970年には実弟の三吉郎が営業として東京ムービーに入社し、楠部を支えることになった[5。 同時進行する製作本數が5本になった1974年、テレビアニメ『柔道讃歌』(4月~9月、日本テレビ系)の作畫監督を務めている最中に病に倒れる。1年間の療養を取り、その間に製作本數が激減。経営の危機を迎えたことで、実製作のみの體制に限界を感じた。さらに東京ムービー自體の製作本數の減少と、東京ムービーの藤岡豊が梶原一騎、映畫プロデューサーの川野泰彥と共に「三協映畫」を設立した影響で東京ムービーの経営が困窮。東京ムービーの経営部門を東京ムービー新社として獨立させ、殘りの東京ムービーを楠部に引き取るように要請されたがこれを固辭。こうしてAプロは東京ムービーとの契約を解消。社名も東京ムービー新社に対抗してシンエイ(新・Aプロダクション、「アニメ界の新鋭」の意)動畫と改め、企畫と製作も行なう製作會社として1976年9月9日、再出発した。楠部三吉郎は、前記のように藤岡から「責任を被ってくれ」と頼まれて納得できずに楠部に相談すると、「いまある金はアニメで稼いだ金だ。アニメで失うなら、どう使ってもらってもかまわない」と好きにしてよいと返答されたことで、獨立を決意したと記している。 シンエイ動畫設立初期の楠部は作畫も手がけ、テレビアニメ『日本名作童話シリーズ 赤い鳥のこころ』(1979年、テレビ朝日系)など、作畫監督として參加していたが、それ以降は社長・會長職に専念する。ただ『劇場版ドラえもん』の作品監修は19年間の長きに渡り(1980年『ドラえもん のび太の恐竜』~1999年『ドラえもん のび太の宇宙漂流記』)參加していた。楠部三吉郎は、楠部に「會社の文鎮」として現場に口を出さず下のものが相談に來たときだけ乗ってくれるよう頼み、その通り実行したと記している。 2005年8月27日死去。享年70。沒後の2006年3月23日から26日に開催された『第5回東京國際アニメフェア』の中で、シンエイ動畫創立の功績に対して、第2回特別功労賞が授與された。
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