橫山隆一
横山隆一, 横山隆一, Yokoyama Ryuuichi
生日:1909-05-17
年齡:115
性別:男
身高: cm
高知県高知市出身の漫畫家、アニメーション作家。 政治風刺漫畫が主流だった1930年代日本の漫畫界において、簡略な絵柄と明快なギャグによる歐米流の「ナンセンス漫畫」を志向した若手グループ「新漫畫派集団」を結成し、やがて戦中・戦後初期の漫畫界をリードした。戦後にはアニメーション製作會社「おとぎプロダクション」を設立したほか、広告や絵本のイラストレーションや、油彩畫を描いた。 高知市堺町の生糸商の長男。高知県立高知城東中學校(現・高知県立高知追手前高等學校)卒業。1927年に彫刻家を目指し上京、東京美術學校を受験するが2度にわたり失敗。1928年に川端畫學校に入學したほか、同郷の彫刻家・本山白雲に入門[1]。その間橫山は、『アサヒグラフ』『新青年』『月刊マンガ・マン』などに漫畫を投稿し続けており、本山に漫畫家への転身をすすめられて堤寒三を紹介され、堤の門下に転じる。また、北澤楽天が橫山の漫畫に惚れ込み、時事新報社の自身の部屋に橫山を招き、面會をしている。この経験は橫山に自信を與えたという。 このころ『月刊マンガ・マン』の寄稿者だった近藤日出造や杉浦幸雄らと知り合った。昭和初期の漫畫界は文壇・畫壇をもじって「漫畫壇」とも呼ばれ、新聞や雑誌は少數のベテランが獨占しているような狀態で、橫山ら若手はプロとしての発表の場がなかなか得られなかった。橫山・近藤・杉浦の3人を中心に「漫畫市場に若手が結束して売り込もう」「毆り込みをかける」といった意見が高まり、1932年に「新漫畫派集団」の結成にいたった。 「線を大膽に簡略化した絵と奇抜な発想」で抜きん出ていた橫山は、「新漫畫派集団」の中で最初に名が売れていった。杉浦は橫山の作風を「昭和のピカソ」と評し、「奇想天外の発想はだれもついていけなかったのに、みんながマネをしようとして失敗した」と語っている。 太平洋戦爭中は、自身の作品『フクちゃん』が日本海軍のプロパガンダとしてアニメーション映畫化された。その一方、『フクちゃん』は、敵國である米軍の宣伝ビラ『落下傘ニュース』にも(當然)無斷で使用された。 戦後の1945年10月、橫山らは「新漫畫派集団」を「漫畫集団」に改組し、新進の漫畫家を多く世に出すことに貢獻した。 橫山は1961年に、日本初のテレビアニメシリーズ『インスタントヒストリー』を製作した。この作品は1分程度の放送であったために、後発の手塚治虫による30分のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』の陰に隠れた存在となってしまっている。 2001年11月8日、脳梗塞のため神奈川県鎌倉市內の病院で死去。翌年に「橫山隆一記念まんが館」が開館することが決定していたが、開館を待たずに亡くなった。橫山の娘は新聞取材に対し「現代ではおどろおどろしい絵や話のものが漫畫と呼ばれてしまっている。本當の意味での『漫畫』は終わった」と語っている。
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