永島慎二
永岛慎二, Nagashima Shinji

生日:1937-07-08
年齡:87
性別:
身高: cm
日本の漫畫家。本名:永島 眞一(または真一、ながしま しんいち)。 東京市滝野川區生まれ。生家は雑貨商であった。父を戦爭で失い、空襲で家を焼かれる。小學校3年の頃から漫畫家になることを志望。目黒區立第一中學校では総番長を務め、高校3年生を相手に暴行傷害事件を起こしたこともある。同校では高野慎三の兄が同級生であり、兄を通じて永島の悪名を聞いていた高野は青林堂に入社後、永島から文句をつけられるのを恐れて変名を使っていた。 同校を2年で中退後、家出して酒屋や洗濯屋、豆腐売り、自転車修理工など十を超える仕事を転々としながら漫畫を描いていたがどれも長くは続かず、半年後に行き詰った。原稿を抱えて街を彷徨っていた(本人談)ところ、偶然再會した目黒區立第一中學校の同級生に支援され、祐天寺近辺の馬小屋の二階に住まいつつ、晝は豆腐や納豆を行商し、夜は漫畫を描き、時折カット描きの稿料を得る生活を続けた。西品川で揚げ物屋を開業した母親ら家族も、反対しつつも支援してくれた。雨天が続き豆腐の行商ができない日が続くと、水しか飲まない日が數日続いたが、祐天寺から現在の山手通りを徒歩で南下し、時には倒れたりしながらも西品川に辿り着いて、店の揚げ物の殘りを貰ったり、妹が家族に內緒で誤魔化した店の売り上げの一部を貰ったりしていた。 1952年、『さんしょのピリちゃん』で漫畫家デビュー。このときの原稿料は、中卒の初任給が4000円の時代に6000円であった。初夏のその月のうちに「馬小屋の二階」を引き払い、実家に凱旋したが、「さんしょのピリちゃん」出版の半月前の七月下旬に、兄の成功を誰よりも喜んでいた前述の妹を事故(友人と行った多摩川で水死)で亡くす。 1953年、若木書房に原稿を持ち込むようになり、出入りしていたつげ義春、遠藤政治と親交する。この頃から漫畫家の集いに顔を出すようになり、新漫畫黨のメンバーや、辰巳ヨシヒロ、さいとう・たかをら「劇畫工房」のメンバーらと交友を広げる。1956年、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、鈴木光明らと同人グループ・かこう會を結成。手塚治虫の面識を得て、アシスタントを一時期務める。1957年、杉村篤(當時の筆名はコンタロー)、石川球太、深井國(當時の筆名は深井ヒロー)らと「むさしのプロダクション」を結成。 1961年に発表した『漫畫家殘酷物語』は、漫畫業界の裏側に迫った作品で、永島の出世作となった。『COM』や『ガロ』などの漫畫誌に數々の作品を発表し、獨特の畫風で「青年漫畫の教祖」と呼ばれるようになった。1962年より親交のあったさいとう・たかを率いるさいとう・プロダクションに籍を置き、絵柄が劇畫風に変化している。この頃から自宅に帰らなくなり、新宿でフーテン生活を経験。のちにその體験を題材にした漫畫「フーテン」を発表している。 1964年から1966年まで蟲プロダクションに所屬、テレビアニメ『ジャングル大帝』などで主に演出を擔當した。 1967年より梶原一騎原作による『柔道一直線』を連載開始。TVドラマ化される。だが、1970年、作家性の違いにより連載を降板。 1972年、『花いちもんめ』ほかにより、第17回(昭和47年度)小學館漫畫賞受賞。1973年テレビアニメ「ワンサくん」(蟲プロダクション)のキャラクターデザイン。1974年、『漫畫のおべんとう箱』により、第3回(昭和49年度)日本漫畫家協會賞優秀賞受賞。 1980年11月16日、大麻不法所持で逮捕。1980年代以降、漫畫家としては半隠居狀態だった。結婚後、阿佐ヶ谷に在住し、1970年頃にある若者にこっぴどく負かされたのがきっかけ(本人談)となり、將棋の駒作りを趣味にしていた。名産地である山形県天童市に出かけたり、同好の士の駒作りの會に參加したりなどしていた。將棋の駒にとどまらず物作りを趣味とし、愛煙家でありダンヒルのパイプを愛用していたが、自作のパイプも製作していた。 2005年6月10日、慢性心不全のため死去。享年69(満67歳沒)。長年糖尿病を患っていて、2000年からは西荻窪へ転居し人工透析を受けていた。墓所は鎌倉瑞泉寺。戒名は「永閑院愼高美久居士」(高美久=コミック)。
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日本の漫畫家。本名:永島 眞一(または真一、ながしま しんいち)。 東京市滝野川區生まれ。生家は雑貨商であった。父を戦爭で失い、空襲で家を焼かれる。小學校3年の頃から漫畫家になることを志望。目黒區立第一中學校では総番長を務め、高校3年生を相手に暴行傷害事件を起こしたこともある。同校では高野慎三の兄が同級生であり、兄を通じて永島の悪名を聞いていた高野は青林堂に入社後、永島から文句をつけられるのを恐れて変名を使っていた。 同校を2年で中退後、家出して酒屋や洗濯屋、豆腐売り、自転車修理工など十を超える仕事を転々としながら漫畫を描いていたがどれも長くは続かず、半年後に行き詰った。原稿を抱えて街を彷徨っていた(本人談)ところ、偶然再會した目黒區立第一中學校の同級生に支援され、祐天寺近辺の馬小屋の二階に住まいつつ、晝は豆腐や納豆を行商し、夜は漫畫を描き、時折カット描きの稿料を得る生活を続けた。西品川で揚げ物屋を開業した母親ら家族も、反対しつつも支援してくれた。雨天が続き豆腐の行商ができない日が続くと、水しか飲まない日が數日続いたが、祐天寺から現在の山手通りを徒歩で南下し、時には倒れたりしながらも西品川に辿り着いて、店の揚げ物の殘りを貰ったり、妹が家族に內緒で誤魔化した店の売り上げの一部を貰ったりしていた。 1952年、『さんしょのピリちゃん』で漫畫家デビュー。このときの原稿料は、中卒の初任給が4000円の時代に6000円であった。初夏のその月のうちに「馬小屋の二階」を引き払い、実家に凱旋したが、「さんしょのピリちゃん」出版の半月前の七月下旬に、兄の成功を誰よりも喜んでいた前述の妹を事故(友人と行った多摩川で水死)で亡くす。 1953年、若木書房に原稿を持ち込むようになり、出入りしていたつげ義春、遠藤政治と親交する。この頃から漫畫家の集いに顔を出すようになり、新漫畫黨のメンバーや、辰巳ヨシヒロ、さいとう・たかをら「劇畫工房」のメンバーらと交友を広げる。1956年、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、鈴木光明らと同人グループ・かこう會を結成。手塚治虫の面識を得て、アシスタントを一時期務める。1957年、杉村篤(當時の筆名はコンタロー)、石川球太、深井國(當時の筆名は深井ヒロー)らと「むさしのプロダクション」を結成。 1961年に発表した『漫畫家殘酷物語』は、漫畫業界の裏側に迫った作品で、永島の出世作となった。『COM』や『ガロ』などの漫畫誌に數々の作品を発表し、獨特の畫風で「青年漫畫の教祖」と呼ばれるようになった。1962年より親交のあったさいとう・たかを率いるさいとう・プロダクションに籍を置き、絵柄が劇畫風に変化している。この頃から自宅に帰らなくなり、新宿でフーテン生活を経験。のちにその體験を題材にした漫畫「フーテン」を発表している。 1964年から1966年まで蟲プロダクションに所屬、テレビアニメ『ジャングル大帝』などで主に演出を擔當した。 1967年より梶原一騎原作による『柔道一直線』を連載開始。TVドラマ化される。だが、1970年、作家性の違いにより連載を降板。 1972年、『花いちもんめ』ほかにより、第17回(昭和47年度)小學館漫畫賞受賞。1973年テレビアニメ「ワンサくん」(蟲プロダクション)のキャラクターデザイン。1974年、『漫畫のおべんとう箱』により、第3回(昭和49年度)日本漫畫家協會賞優秀賞受賞。 1980年11月16日、大麻不法所持で逮捕。1980年代以降、漫畫家としては半隠居狀態だった。結婚後、阿佐ヶ谷に在住し、1970年頃にある若者にこっぴどく負かされたのがきっかけ(本人談)となり、將棋の駒作りを趣味にしていた。名産地である山形県天童市に出かけたり、同好の士の駒作りの會に參加したりなどしていた。將棋の駒にとどまらず物作りを趣味とし、愛煙家でありダンヒルのパイプを愛用していたが、自作のパイプも製作していた。 2005年6月10日、慢性心不全のため死去。享年69(満67歳沒)。長年糖尿病を患っていて、2000年からは西荻窪へ転居し人工透析を受けていた。墓所は鎌倉瑞泉寺。戒名は「永閑院愼高美久居士」(高美久=コミック)。
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