隆慶一郎
隆庆一郎, Ryu Keiichiro
生日:1923-09-30
年齡:102
性別:男
身高: cm
隆 慶一郎、日本の腳本家・小説家(時代小説作家)。本名は池田 一朗(いけだ いちろう)。本名で腳本、隆 慶一郎で小説、を執筆していた。 東京市赤坂區生まれ。舊制同志社中學、第三高等學校を経て、東京大學文學部仏文科卒。 戦時中は學徒出陣で出征、陸軍士官として中國大陸を転戦した。この時期に陣中に持って行った『葉隠』が、作家として『死ぬことと見つけたり』を書くきっかけとなった。終戦後、復學して1948年 東京大學卒業、大學時代に師事していた小林秀雄が參畫していた創元社(現:東京創元社)に入社する。短期だが大學講師でも勤務した。1950年頃、立教大學講師、中央大學助教授としてフランス語を、1959年まで教えていた。 1957年 腳本家としての活動を開始する。當初は『陽のあたる坂道』など日活の映畫を中心に腳本を手がける。腳本家では、本名の池田 一朗(いけだ いちろう)で活動しており、実際に筆名の隆 慶一郎を名乗って活動したのは、晩年の作家活動期となった約5年間だけである。1957年に腳本家としての活動を始めて以降、20世紀後半の日本のテレビ・大衆向けの文芸活動を広く長く支えた存在であった。 腳本家時代は映畫、テレビドラマ問わず幅広い作品を手がけ、戦後日本のテレビドラマ史においても1970年代までを代表する腳本家の一人だった。腳本家としての代表作は映畫『にあんちゃん』、テレビドラマ『鬼平犯科帳』。他にも『長崎犯科帳』・『破れ奉行』・『隠密奉行』・『大忠臣蔵』など多數あり、攜わった作品の多くが、現在でも地方のローカル局・時代劇専門チャンネルなどで繰り返し再放送されている。 1984年、週刊新潮で小説家として第一作『吉原御免狀』を連載。隆 慶一郎は、この時より名乗った筆名。小説家時代は時代小説を中心に執筆活動を開始。代表作として『吉原御免狀』、『影武者徳川家康』、『一夢庵風流記』[1]、『捨て童子・松平忠輝』が挙げられる。長らく腳本家として活動しており、小説家生活に入ったのが還暦を過ぎてからと遅く、小説家としては実働僅か5年だった。また急逝したこともあって、未完の作品、構想だけが編集者に語られるなどして殘った作品も少なくない。[2]ちなみに、還暦を過ぎるまで小説を手掛けなかった理由については、かつて師事した小林秀雄が存命の間は、とても怖くて小説は書けないと思っていたからという旨の事を語っている。 処女作『吉原御免狀』が直木賞候補作となり、結局は選に漏れたものの、下馬評の段階では新聞や文芸系のマスコミなどから最有力候補の一角に挙げられたことをきっかけとして、時代小説で一大センセーションを巻き起こした。隆の小説作品の特徴は、人物描寫でもとりわけ男の生きざまや人情を書くのに非常に秀逸な點が第一に挙げられ、その內容も大衆文芸としての要所を確実に抑えつつも極めて良質な仕上がりを見せている。また、網野善彥らの中世近世史研究を大膽に取り入れ、これまで描かれなかった非農業民を中心とした庶民の歴史を描くことに成功している。 その一つの象徴的な作品が『一夢庵風流記』である。「傾奇者(かぶきもの)」という言葉と前田慶次郎利益という歴史上の人物が平成の世でメジャーになった背景を語る際には、この作品とこれを原作とした漫畫化作品『花の慶次 ―雲のかなたに―』、そして『花の慶次』のキャラクター群を用いて展開された様々な関連商品の存在を抜きに語る事はできない。 1989年 日本映畫プロデューサー協會賞特別賞、『一夢庵風流記』で第2回柴田錬三郎賞受賞。 1996年に新潮社で『隆慶一郎全集』全6巻が刊行。2009年9月より2010年7月にかけ同社で、新版『隆慶一郎全集』全19巻が刊行された。 2010年10月に『「歴史読本」編 隆慶一郎を読む』(新人物往來社)が上梓された。
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隆 慶一郎、日本の腳本家・小説家(時代小説作家)。本名は池田 一朗(いけだ いちろう)。本名で腳本、隆 慶一郎で小説、を執筆していた。 東京市赤坂區生まれ。舊制同志社中學、第三高等學校を経て、東京大學文學部仏文科卒。 戦時中は學徒出陣で出征、陸軍士官として中國大陸を転戦した。この時期に陣中に持って行った『葉隠』が、作家として『死ぬことと見つけたり』を書くきっかけとなった。終戦後、復學して1948年 東京大學卒業、大學時代に師事していた小林秀雄が參畫していた創元社(現:東京創元社)に入社する。短期だが大學講師でも勤務した。1950年頃、立教大學講師、中央大學助教授としてフランス語を、1959年まで教えていた。 1957年 腳本家としての活動を開始する。當初は『陽のあたる坂道』など日活の映畫を中心に腳本を手がける。腳本家では、本名の池田 一朗(いけだ いちろう)で活動しており、実際に筆名の隆 慶一郎を名乗って活動したのは、晩年の作家活動期となった約5年間だけである。1957年に腳本家としての活動を始めて以降、20世紀後半の日本のテレビ・大衆向けの文芸活動を広く長く支えた存在であった。 腳本家時代は映畫、テレビドラマ問わず幅広い作品を手がけ、戦後日本のテレビドラマ史においても1970年代までを代表する腳本家の一人だった。腳本家としての代表作は映畫『にあんちゃん』、テレビドラマ『鬼平犯科帳』。他にも『長崎犯科帳』・『破れ奉行』・『隠密奉行』・『大忠臣蔵』など多數あり、攜わった作品の多くが、現在でも地方のローカル局・時代劇専門チャンネルなどで繰り返し再放送されている。 1984年、週刊新潮で小説家として第一作『吉原御免狀』を連載。隆 慶一郎は、この時より名乗った筆名。小説家時代は時代小説を中心に執筆活動を開始。代表作として『吉原御免狀』、『影武者徳川家康』、『一夢庵風流記』[1]、『捨て童子・松平忠輝』が挙げられる。長らく腳本家として活動しており、小説家生活に入ったのが還暦を過ぎてからと遅く、小説家としては実働僅か5年だった。また急逝したこともあって、未完の作品、構想だけが編集者に語られるなどして殘った作品も少なくない。[2]ちなみに、還暦を過ぎるまで小説を手掛けなかった理由については、かつて師事した小林秀雄が存命の間は、とても怖くて小説は書けないと思っていたからという旨の事を語っている。 処女作『吉原御免狀』が直木賞候補作となり、結局は選に漏れたものの、下馬評の段階では新聞や文芸系のマスコミなどから最有力候補の一角に挙げられたことをきっかけとして、時代小説で一大センセーションを巻き起こした。隆の小説作品の特徴は、人物描寫でもとりわけ男の生きざまや人情を書くのに非常に秀逸な點が第一に挙げられ、その內容も大衆文芸としての要所を確実に抑えつつも極めて良質な仕上がりを見せている。また、網野善彥らの中世近世史研究を大膽に取り入れ、これまで描かれなかった非農業民を中心とした庶民の歴史を描くことに成功している。 その一つの象徴的な作品が『一夢庵風流記』である。「傾奇者(かぶきもの)」という言葉と前田慶次郎利益という歴史上の人物が平成の世でメジャーになった背景を語る際には、この作品とこれを原作とした漫畫化作品『花の慶次 ―雲のかなたに―』、そして『花の慶次』のキャラクター群を用いて展開された様々な関連商品の存在を抜きに語る事はできない。 1989年 日本映畫プロデューサー協會賞特別賞、『一夢庵風流記』で第2回柴田錬三郎賞受賞。 1996年に新潮社で『隆慶一郎全集』全6巻が刊行。2009年9月より2010年7月にかけ同社で、新版『隆慶一郎全集』全19巻が刊行された。 2010年10月に『「歴史読本」編 隆慶一郎を読む』(新人物往來社)が上梓された。
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