笹川浩
笹川ひろし, Sasagawa Hiroshi

生日:1936-07-09
年齡:88
性別:
身高: cm
福島縣會津若松縣出身的動畫導演、漫畫家、作家。龍之子工作室顧問。 福島県會津若松市出身。漫畫家を経て、タツノコプロの創立時から演出家として活躍。1970年代から1980年代にかけてのタツノコ黃金時代の立役者の一人。代表作は『タイムボカンシリーズ』など。ギャグ作品を多く手がけており、マンネリを生かしたギャグの演出を得意とする。「ギャグアニメの帝王」「アニメ界の欽ちゃん」とも言われた。しかし、當人は『新造人間キャシャーン』のようなシリアスなストーリーが好きであるという。 タツノコプロでは取締役兼演出部長として1975年に研修生を募集し、演出家要員として真下耕一、うえだひでひと、西久保瑞穂、押井守を採用(彼らは後に「タツノコ四天王」と呼ばれるようになる)。個人事務所の笹川ひろし事務所には、長田ノオト、上北雙子(上北実那、上北希沙)、今川泰宏、茂木智里らが在籍するなど、數々の人材を育成している。 『タイムボカンシリーズ』に登場する「ささやきレポーター」と「ドクター笹ヤブ」は笹川ひろしがモデルである。また、同シリーズの三悪の中の頭脳擔當(グロッキー、ボヤッキー、セコビッチ、コスイネン等)も笹川がモデルの一人と言われている。ヤッターマンに登場する三悪の女ボス・ドロンジョの本名は「ササッガワ・ヒロッコ」とされており、その名前からわかるよう、笹川の名前をもじったものである。 郷里の會津若松で漆塗り職人に就いたが漫畫家になる夢を捨て切れず、同郷の平田昭吾らと會津漫畫研究會を結成し、傾倒する手塚治虫に漫畫を投稿し続ける。それが契機となり、手塚の誘いで1957年に上京、手塚治虫のフルタイムの専屬アシスタント第一號となる。月刊誌『少年畫報』の1958年9月號から1959年3月號まで連載された『探偵學校』で漫畫家デビュー。 1959年に手塚治虫のチーフアシスタントを獨立して、一本立ち。『少年畫報』誌では続けて『鉄腕ベビー』を連載。1963年に創刊された週刊漫畫誌『少年キング』で連載した『魔犬五郎』は1972年に東映動畫で『魔犬ライナー0011変身せよ!』として劇場アニメ化されたが、タツノコプロ在籍中のためにアニメ化にはタッチしていない。『魔犬五郎』は『新造人間キャシャーン』に登場するロボット犬フレンダーの原型でもある。その他の漫畫作品には『週刊少年マガジン』連載の『ワンワン刑事』『少年社長』など。 手塚治虫のアシスタントから獨立後、蟲プロのテレビアニメ『鉄腕アトム』の絵コンテを2本描いたことでアニメの魅力に取り憑かれ、當時交友関係のあった吉田竜夫にアニメ製作の話を持ちかけた。當時のタツノコプロは吉田兄弟で経営する漫畫スタジオだったが、同時期にタツノコプロへ東映動畫からテレビアニメを共同製作する企畫が持ち込まれ、共同製作の話は流れたものの、吉田竜夫はタツノコプロ単獨でアニメ製作へ乗り出す。笹川は吉田のアシスタントだった原征太郎と2人で東映動畫でアニメーターの養成教育を受け、タツノコプロ創立時から演出スタッフとして吉田竜夫を支えた。 1967年から放送の『おらぁグズラだど』でタツノコプロにギャグアニメという新たな路線を敷く。1975年から始まったタイムボカンシリーズはタツノコプロのカラーのアクションとギャグを融合させようと企畫し、タツノコプロを代表するシリーズとなった。 古くからの同郷の友人で絵本作家の平田昭吾の誘いで、1979年9月にタツノコプロを退社し、西崎義展の東京動畫へと移籍。個人事務所の笹川事務所も設ける。タツノコプロ退社後も引き続き『タイムボカンシリーズ』を擔當するとともに、東京動畫では『メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行』『宇宙戦艦ヤマトIII』を擔當。さらに東京動畫はシンエイ動畫の下請けをすることとなり、『忍者ハットリくん』の総監督に就任した。それにより、Aプロ(東京ムービー)時代の色香を殘していたシンエイ動畫の作品に新風をもたらし、『忍者ハットリくん』の「ズコー!」などに見られる「ずっこけ台詞」を數多く生み出して子供達に人気を博した。1983年に東京動畫が解散し、西崎義展との契約が終了した以降も、シンエイ動畫での作品が仕事の中心となった。この頃の笹川は、週2、3本の監督の掛け持ちは當たり前で、さらに平田の勧めで児童小説を書くようになったので、多忙を極めた。 1990年からはテレビ朝日版『ドラえもん』の初代プロデューサーでアニメ企畫會社スタッフ21の社長も勤めていた菅野てつ勇が設立したアニメ製作會社・アニメーション21の立ち上げに參加している。笹川の他に杉井興二と杉井が社長を勤めるタツノコアニメ研究所のアニメーターが大挙して移籍して、『サラダ十勇士トマトマン』『おーい!竜馬』『ポコニャン』『カンビュセスの籤』を製作するも、バブル崩壊の影響もあり、アニメーション21は解散。 OVA『タイムボカン王道復古』に監修として參加した事がきっかけとなり、1994年から顧問・企畫室ディレクターとしてタツノコプロへ復帰した。 2009年3月公開の実寫映畫『ヤッターマン』にはドロンボー一味のインチキ商売に騙される客としてカメオ出演している。 2010年3月には郷里の會津若松市の観光PRキャラクター、お城ボくんをデザインした。モチーフは鶴ヶ城。
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福島縣會津若松縣出身的動畫導演、漫畫家、作家。龍之子工作室顧問。 福島県會津若松市出身。漫畫家を経て、タツノコプロの創立時から演出家として活躍。1970年代から1980年代にかけてのタツノコ黃金時代の立役者の一人。代表作は『タイムボカンシリーズ』など。ギャグ作品を多く手がけており、マンネリを生かしたギャグの演出を得意とする。「ギャグアニメの帝王」「アニメ界の欽ちゃん」とも言われた。しかし、當人は『新造人間キャシャーン』のようなシリアスなストーリーが好きであるという。 タツノコプロでは取締役兼演出部長として1975年に研修生を募集し、演出家要員として真下耕一、うえだひでひと、西久保瑞穂、押井守を採用(彼らは後に「タツノコ四天王」と呼ばれるようになる)。個人事務所の笹川ひろし事務所には、長田ノオト、上北雙子(上北実那、上北希沙)、今川泰宏、茂木智里らが在籍するなど、數々の人材を育成している。 『タイムボカンシリーズ』に登場する「ささやきレポーター」と「ドクター笹ヤブ」は笹川ひろしがモデルである。また、同シリーズの三悪の中の頭脳擔當(グロッキー、ボヤッキー、セコビッチ、コスイネン等)も笹川がモデルの一人と言われている。ヤッターマンに登場する三悪の女ボス・ドロンジョの本名は「ササッガワ・ヒロッコ」とされており、その名前からわかるよう、笹川の名前をもじったものである。 郷里の會津若松で漆塗り職人に就いたが漫畫家になる夢を捨て切れず、同郷の平田昭吾らと會津漫畫研究會を結成し、傾倒する手塚治虫に漫畫を投稿し続ける。それが契機となり、手塚の誘いで1957年に上京、手塚治虫のフルタイムの専屬アシスタント第一號となる。月刊誌『少年畫報』の1958年9月號から1959年3月號まで連載された『探偵學校』で漫畫家デビュー。 1959年に手塚治虫のチーフアシスタントを獨立して、一本立ち。『少年畫報』誌では続けて『鉄腕ベビー』を連載。1963年に創刊された週刊漫畫誌『少年キング』で連載した『魔犬五郎』は1972年に東映動畫で『魔犬ライナー0011変身せよ!』として劇場アニメ化されたが、タツノコプロ在籍中のためにアニメ化にはタッチしていない。『魔犬五郎』は『新造人間キャシャーン』に登場するロボット犬フレンダーの原型でもある。その他の漫畫作品には『週刊少年マガジン』連載の『ワンワン刑事』『少年社長』など。 手塚治虫のアシスタントから獨立後、蟲プロのテレビアニメ『鉄腕アトム』の絵コンテを2本描いたことでアニメの魅力に取り憑かれ、當時交友関係のあった吉田竜夫にアニメ製作の話を持ちかけた。當時のタツノコプロは吉田兄弟で経営する漫畫スタジオだったが、同時期にタツノコプロへ東映動畫からテレビアニメを共同製作する企畫が持ち込まれ、共同製作の話は流れたものの、吉田竜夫はタツノコプロ単獨でアニメ製作へ乗り出す。笹川は吉田のアシスタントだった原征太郎と2人で東映動畫でアニメーターの養成教育を受け、タツノコプロ創立時から演出スタッフとして吉田竜夫を支えた。 1967年から放送の『おらぁグズラだど』でタツノコプロにギャグアニメという新たな路線を敷く。1975年から始まったタイムボカンシリーズはタツノコプロのカラーのアクションとギャグを融合させようと企畫し、タツノコプロを代表するシリーズとなった。 古くからの同郷の友人で絵本作家の平田昭吾の誘いで、1979年9月にタツノコプロを退社し、西崎義展の東京動畫へと移籍。個人事務所の笹川事務所も設ける。タツノコプロ退社後も引き続き『タイムボカンシリーズ』を擔當するとともに、東京動畫では『メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行』『宇宙戦艦ヤマトIII』を擔當。さらに東京動畫はシンエイ動畫の下請けをすることとなり、『忍者ハットリくん』の総監督に就任した。それにより、Aプロ(東京ムービー)時代の色香を殘していたシンエイ動畫の作品に新風をもたらし、『忍者ハットリくん』の「ズコー!」などに見られる「ずっこけ台詞」を數多く生み出して子供達に人気を博した。1983年に東京動畫が解散し、西崎義展との契約が終了した以降も、シンエイ動畫での作品が仕事の中心となった。この頃の笹川は、週2、3本の監督の掛け持ちは當たり前で、さらに平田の勧めで児童小説を書くようになったので、多忙を極めた。 1990年からはテレビ朝日版『ドラえもん』の初代プロデューサーでアニメ企畫會社スタッフ21の社長も勤めていた菅野てつ勇が設立したアニメ製作會社・アニメーション21の立ち上げに參加している。笹川の他に杉井興二と杉井が社長を勤めるタツノコアニメ研究所のアニメーターが大挙して移籍して、『サラダ十勇士トマトマン』『おーい!竜馬』『ポコニャン』『カンビュセスの籤』を製作するも、バブル崩壊の影響もあり、アニメーション21は解散。 OVA『タイムボカン王道復古』に監修として參加した事がきっかけとなり、1994年から顧問・企畫室ディレクターとしてタツノコプロへ復帰した。 2009年3月公開の実寫映畫『ヤッターマン』にはドロンボー一味のインチキ商売に騙される客としてカメオ出演している。 2010年3月には郷里の會津若松市の観光PRキャラクター、お城ボくんをデザインした。モチーフは鶴ヶ城。
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