荒木伸吾
Araki Shingo

生日:1939-01-01
年齡:86
性別:
身高: cm
日本のアニメーター、キャラクターデザイナー、漫畫家。作畫プロダクション「有限會社荒木プロダクション」代表取締役。日本アニメーター・演出協會(JAniCA)會員。 代表作に『聖闘士星矢』『キューティーハニー』『魔女っ子メグちゃん』など。全盛期の1970年代から1980年代まで、荒木伸吾デザインのアニメキャラクターはその端正な絵柄で美形キャラクターの代名詞とされるほどだった。アクション作畫の腕前を評価する聲も多い。 愛知県名古屋市出身。中學卒業後、日本車輌製造に勤務する。さいとうたかを、辰巳ヨシヒロの影響を受けて漫畫の執筆をはじめ、1955年に貸本劇畫誌『街』(セントラル文庫)の新人コンクールで入賞、漫畫家としてデビューする。その後、晝は工場で働きながら、『街』や『顔』(エンゼル文庫)などの貸本劇畫誌に約60本の短編を執筆する。 しかし漫畫で生計を立てることは出來ず、22歳頃から1年ほどCMのコンテを描く仕事に従事した後、貸本漫畫家仲間で先に蟲プロダクションに入っていた真崎守の誘いで、1964年に蟲プロダクションへ入社。テレビアニメ『ジャングル大帝』でアニメーターへの転身を果たした。 蟲プロダクションは1年ほどで退社して、1966年に作畫スタジオ「ジャガード」を斎藤博ら仲間數人で発足。アニメについては、ジャガード時代に斎藤から多くを學んだと後に荒木は感謝の弁を述べている。 ジャガードは蟲プロダクションの作品とともに東京ムービーの作品の作畫も手がけて、荒木も楠部大吉郎作畫監督の下で『巨人の星』の劇畫タッチの作畫に挑戦し、劇中の一つのクライマックスになる飛雄馬の大リーグボール1號を花形満が打ち返すパースを強調させたシーンの作畫は語り草となった。 1970年から、蟲プロダクションで杉野昭夫、金山明博との3人共同で『あしたのジョー』の作畫監督を務めた。また、この年から『キックの鬼』『魔法のマコちゃん』で作畫監督をしたのを手始めに東映動畫作品にも參加するようになった。1971年には友人とスタジオZを設立(後輩の金田伊功、貞光紳也、富沢和雄もここに在席)。1973年にフリーになり、テレビアニメ『バビル2世』で荒木は初のキャラクターデザインを任された。これらは初期のキャラクターでは最も愛着が強いという。 さらに東映動畫では、1973年の『キューティーハニー』、1974年の『魔女っ子メグちゃん』、1975年の『少年徳川家康』『UFOロボ グレンダイザー』、1977年の『惑星ロボ ダンガードA』と立て続けに東映動畫作品のキャラクターデザインをして、荒木の名を印象付けた。特に『惑星ロボ ダンガードA』の男性キャラクターのトニー・ハーケンは女性ファンの支持を得た。 1970年代末に始まったアニメブームで荒木を人気アニメーターの地位に押し上げたのは、これらの作品である。この間、1972年に倒産したジャガードに代わり1974年に荒木プロダクションを設立、荒木の設立時からのメンバーである姫野美智を片腕として、姫野の少女漫畫的な華麗なタッチが荒木の作風に加わった。 1979年の東京ムービー作品『ベルサイユのばら』を終えると、荒木プロダクションは1980年から同じく東京ムービーでフランスとの合作作品『宇宙伝説ユリシーズ31』『ルパン8世』『ガジェット警部』『シャンソン・ノノ』『ヒースクリフ』を1983年まで手がけて、日本國內ではアニメファンに対して目立った仕事がなかった。フランスとの仕事ではソフトな演技を學び、後の仕事に役立ったという。 荒木の作風の人気に再び火がついたのは、1986年の車田正美原作の『聖闘士星矢』のテレビアニメ化によるものだった。『聖闘士聖矢』は3年間にわたって放送され、自他ともに認める荒木・姫野の代表作となり2000年代以降も続編を製作する人気シリーズとなった。その後は車田作品の『リングにかけろ1』・『風魔の小次郎』に加え、橫山光輝作品のリメイク版など、多くのキャラクターデザインを手がけるようになった。この人気を背景に、荒木・姫野のオリジナルキャラクターデザインによるコンピュータゲーム『BURAI』(1989年)と『KIGEN 輝きの覇者』(1991年)が発売された。 『聖闘士星矢』以降も荒木は東映動畫作品を主としてキャラクターデザインを続けたが、作畫監督を務めることは少なくなっていった。 2010年8月には公式サイトを開設(外部リンク參照)。45年ぶりに作成中の漫畫作品『Sourire』のサンプルを數ページほど公開した。 2011年12月1日、水泳中の事故による急性循環不全で死去した。享年72。
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日本のアニメーター、キャラクターデザイナー、漫畫家。作畫プロダクション「有限會社荒木プロダクション」代表取締役。日本アニメーター・演出協會(JAniCA)會員。 代表作に『聖闘士星矢』『キューティーハニー』『魔女っ子メグちゃん』など。全盛期の1970年代から1980年代まで、荒木伸吾デザインのアニメキャラクターはその端正な絵柄で美形キャラクターの代名詞とされるほどだった。アクション作畫の腕前を評価する聲も多い。 愛知県名古屋市出身。中學卒業後、日本車輌製造に勤務する。さいとうたかを、辰巳ヨシヒロの影響を受けて漫畫の執筆をはじめ、1955年に貸本劇畫誌『街』(セントラル文庫)の新人コンクールで入賞、漫畫家としてデビューする。その後、晝は工場で働きながら、『街』や『顔』(エンゼル文庫)などの貸本劇畫誌に約60本の短編を執筆する。 しかし漫畫で生計を立てることは出來ず、22歳頃から1年ほどCMのコンテを描く仕事に従事した後、貸本漫畫家仲間で先に蟲プロダクションに入っていた真崎守の誘いで、1964年に蟲プロダクションへ入社。テレビアニメ『ジャングル大帝』でアニメーターへの転身を果たした。 蟲プロダクションは1年ほどで退社して、1966年に作畫スタジオ「ジャガード」を斎藤博ら仲間數人で発足。アニメについては、ジャガード時代に斎藤から多くを學んだと後に荒木は感謝の弁を述べている。 ジャガードは蟲プロダクションの作品とともに東京ムービーの作品の作畫も手がけて、荒木も楠部大吉郎作畫監督の下で『巨人の星』の劇畫タッチの作畫に挑戦し、劇中の一つのクライマックスになる飛雄馬の大リーグボール1號を花形満が打ち返すパースを強調させたシーンの作畫は語り草となった。 1970年から、蟲プロダクションで杉野昭夫、金山明博との3人共同で『あしたのジョー』の作畫監督を務めた。また、この年から『キックの鬼』『魔法のマコちゃん』で作畫監督をしたのを手始めに東映動畫作品にも參加するようになった。1971年には友人とスタジオZを設立(後輩の金田伊功、貞光紳也、富沢和雄もここに在席)。1973年にフリーになり、テレビアニメ『バビル2世』で荒木は初のキャラクターデザインを任された。これらは初期のキャラクターでは最も愛着が強いという。 さらに東映動畫では、1973年の『キューティーハニー』、1974年の『魔女っ子メグちゃん』、1975年の『少年徳川家康』『UFOロボ グレンダイザー』、1977年の『惑星ロボ ダンガードA』と立て続けに東映動畫作品のキャラクターデザインをして、荒木の名を印象付けた。特に『惑星ロボ ダンガードA』の男性キャラクターのトニー・ハーケンは女性ファンの支持を得た。 1970年代末に始まったアニメブームで荒木を人気アニメーターの地位に押し上げたのは、これらの作品である。この間、1972年に倒産したジャガードに代わり1974年に荒木プロダクションを設立、荒木の設立時からのメンバーである姫野美智を片腕として、姫野の少女漫畫的な華麗なタッチが荒木の作風に加わった。 1979年の東京ムービー作品『ベルサイユのばら』を終えると、荒木プロダクションは1980年から同じく東京ムービーでフランスとの合作作品『宇宙伝説ユリシーズ31』『ルパン8世』『ガジェット警部』『シャンソン・ノノ』『ヒースクリフ』を1983年まで手がけて、日本國內ではアニメファンに対して目立った仕事がなかった。フランスとの仕事ではソフトな演技を學び、後の仕事に役立ったという。 荒木の作風の人気に再び火がついたのは、1986年の車田正美原作の『聖闘士星矢』のテレビアニメ化によるものだった。『聖闘士聖矢』は3年間にわたって放送され、自他ともに認める荒木・姫野の代表作となり2000年代以降も続編を製作する人気シリーズとなった。その後は車田作品の『リングにかけろ1』・『風魔の小次郎』に加え、橫山光輝作品のリメイク版など、多くのキャラクターデザインを手がけるようになった。この人気を背景に、荒木・姫野のオリジナルキャラクターデザインによるコンピュータゲーム『BURAI』(1989年)と『KIGEN 輝きの覇者』(1991年)が発売された。 『聖闘士星矢』以降も荒木は東映動畫作品を主としてキャラクターデザインを続けたが、作畫監督を務めることは少なくなっていった。 2010年8月には公式サイトを開設(外部リンク參照)。45年ぶりに作成中の漫畫作品『Sourire』のサンプルを數ページほど公開した。 2011年12月1日、水泳中の事故による急性循環不全で死去した。享年72。
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